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title: ラブ・ダイアローグ・ナウ｜植村朔也：イントロダクション
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modified: 2020-12-06T18:01:50.000Z
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植村朔也　うえむら・さくや 大学生。1998年12月22日生まれ。小劇場と市街の接続をスローガンに批評とプレイを実践する〈東京はるかに〉を主宰。広くやさしく舞台芸術を批評し、日本の小劇場シーンの風通しをよくしていく。

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スペースノットブランクは小野彩加さんと中澤陽さんが舞台を制作するためのひとつの場のようなものですが、そこから生まれてくる実験的な表現はあまりに多岐にわたっています。2020年3月に上演中俳優が全くその場を動かない『[[ice-and-winter|氷と冬]]』を上演したかと思えば、その次の作品として2020年8月に発表された『[[physical-catharsis|フィジカル・カタルシス]]』はほとんどダンスに近い舞台でした。ここでは、その舞台のドキュメンタリー演劇的側面を特に論じることにします。 　ドキュメンタリー演劇は、もともとは虚構性を薄めて客観性を高めた政治劇を指して用いられた言葉でした。けれどもドキュメンタリーの概念や社会状況がうつろうにつれ、その意味は大きな広がりを見せます。フィクションをドキュメンタリーの形式で表現する（モキュメンタリー）ことにより、現代社会での現実と虚構の境界の複雑さそれ自体を扱うことができるようになったのです。このような舞台では、俳優は自分のことを観客に向かって伝達します。それはしばしば、政治や社会から隔絶されているかのようにごく私的で個人的な、ささやかな日常の風景を掬い取るような形をとります。ドラマ性やリアリティの大小は作品によって大きく異なりますが、観客からしてみれば、そこで発された言葉の真偽を確かめることはできません。 　スペースノットブランクは、出演者と演出家が共同してテクストを構築する独自のプロセスが創作の要となっています。それは、俳優の生活雑感から、その場で紡ぐフィクションまで種々様々です。それにしても、このようにごく個人的な記憶から舞台がつくられていくのは、なぜなのでしょうか？

ハンス＝ティース・レーマン『ポストドラマ演劇』は、20世紀の演劇の展開を虚構（フィクション）から状況（シチュエーション）への移行として概括したうえで、場面外対話としての独白（モノローグ）を今日の演劇の特色の一つとして掲げています。もう少しかみ砕いて説明しましょう。 　通常舞台にはふた通りのコミュニケーションが存在しています。ひとつは、物語内で俳優が演じる登場人物たちの間で交わされる対話。そしてもうひとつが、俳優と観客同士の間で交わされる対話です。上演行為が戯曲 ── テクストの単なる再現表象を離れるにつれ、前者の場面内対話よりも後者の場面外対話のほうが前景化します。 　普通は上演中に観客が口を開くことはありませんから、後者のコミュニケーションを想定することは一見不自然なようですが、実際には視線、集中の気配、表情、そうしたものを受け取りながら俳優は日々演技をしているものです。これは、俳優がより良い演技を提供すればするほど、基本的に観客も集中や反応の程度を高め、それが俳優の演じやすさに作用するような循環的な過程です。もちろん、その逆も然りです。舞台と客席の間のこのような複雑で相互的なやりとりのありようを、ここでは広い意味で「対話」と呼ぶことにしましょう。 　現代演劇におけるモノローグは、登場人物同士のやりとりから身を引き離すことで、観客との相互的な場を生成させる企てといえます（レーマンはこうしたモノローグを、通常の独白から特に区別する意味で「モノロギー」と名づけています）。現代演劇は物語がもたらす感動ばかりでなく、双方向的な参与を通じた場の豊かさそれ自体、すなわちイヴェント性や出来事性をも志向しているのです。

『[[love-dialogue-now|ラブ・ダイアローグ・ナウ]]』はダイアローグ（対話）という言葉をタイトルに冠しながらもそのほとんどがモノローグによって構成されています。しかしそれがモノロギーであるとすれば、モノローグが同時にダイアローグでもあるような、この作品の特異な構造がわかりやすくなるかと思います。 　ところで、独白とはきわめて内省的な形式の言葉です。紡がれる言葉はまずもって俳優独自の身体から発された固有の言語です。そうした語りが、ほとんど匿名的な抽象性の中に溶解してゆくのがスペースノットブランクのクリエーションです。 　スペースノットブランクの舞台では、ある人の言葉が別の誰かに受け渡されます。今回、豊岡、静岡では古賀友樹さんと札内茜梨さんが出演なさいますが、鳥取では演出の小野さんと中澤さんが出演します。そのときは古賀さんと札内さんが演じていた言葉を、小野さんと中澤さんが口にすることになります。それから、ラブ・ダイアローグ・ナウはすでに三度形を変えて上演されています。今回のテクストは過去のどの公演とも異なる内容ではありますが、いくつかの言葉は今回にも引き継がれています。ですからいずれにせよ出演者は、自分のものでない言葉をしゃべることになるわけですが、これは役を演じるといういわゆる「演技」とはまた違ったレベルで、手渡された他者の言葉に出会うことだと言えます。 　そして、フィクションを交えた語りは、自分の言葉でありながら自分の言葉でない、別様でありえた可能性としての自分の言葉です。さらに、そうしてつくられた独り語りは巧みに編集されて、時に相手の言葉と響き合い、時に相手の言葉と分け持たれ、時に相手の言葉に奪い去られてゆきます。 　このように、俳優から見ればいくつもの「他人」と ── 観客と、他の俳優と、そしていつかのどこかの知らない自分と ──「自分」の言葉が「出会う」ところに成立しているのが、『[[love-dialogue-now|ラブ・ダイアローグ・ナウ]]』なのです。

稽古場での言葉が上演されるということは、以前の公演も含め、作品のたどってきた過去の記憶が、上演の一時間に凝縮されるということでもあります。もっとも、これは実は舞台芸術一般の性格でもあります。舞台に載せられる言葉は、幾日もの稽古での反復によって研鑽され、そうした時間の重みを抱えながら、しかし観客にまなざされて舞台の今を生きる、不思議な言葉なのです。 　そして、様々な人々の様々な記憶をコラージュして作られるスペースノットブランクの舞台は、多様な解釈を許容するものです。作り手の伝えたい「正解」のメッセージがなにかあるわけではありません。それぞれの人が、それぞれの仕方で舞台を経験するのです。 　そうして持ち帰られた舞台の言葉やイメージは、時に新しい記憶や解釈と結びついてゆくはずです。わたくし自身、彼らの過去の舞台と終演後に新鮮な「出会い」を果たすことがしばしばです。 　こうしてさまざまな記憶や時間がひとつところに折り重ねられながらうつろいゆくのがスペースノットブランクの舞台です。豊岡、静岡、鳥取といういくつもの場所を旅する『[[love-dialogue-now|ラブ・ダイアローグ・ナウ]]』では、遠い広がりを持つこれまでとこれからが、他の姿でありえる（た）可能性を大いに秘めながら、それぞれの場所と、それぞれのあなたと、それぞれの現在で「対話」することでしょう。モノロギーたちが「出会う」のは、このような「出来事」の地平なのです。

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[[love-dialogue-now|ラブ・ダイアローグ・ナウ｜作品概要]]